特集 | 2019.1月号

アステン特集

おせんげんさんのこと。

2019年最初の特集は、おせんげんさん。人生の節目に足を運び、手を合わせてきたなじみ深い神社について歴史が深いことは何となく知っていたけれど、この場所で、長きにわたって私たちの暮らしに関わってきたことについてあらためて聞いてみたい。

おせんげんさんは祈りの集積地。

 賤機山(しずはたやま)は、神社ができる以前からそこに生きる人々にとって特別な場所だったはず。そう話してくれたのは、静岡浅間神社の権禰宜、宇佐美洋二さんだ。
 「お社ができるのに重要な条件は地形です。選ばれるのは、多くが川のそばや泉が湧く場所。今も静岡浅間神社の境内を流れる水路には、安倍川の清流が流れていて、常にこの土地を清めています。シジミもいるんですよ」
 まだ今ほど人が多くなく、建物もほとんどなかったころの静岡の市街地を想像してみてほしい。富士山はもちろん、南アルプスの山々、少し高い所に登れば海の向こうの伊豆半島まで広く見渡せていたはず。安倍川は今よりずっと奔放に流れ、徳川家康が大規模な治水をするまでは、あちこち蛇行しながら海に注いでいた。
 神々は春に山から降りてきて田畑に恵みをもたらし、秋にまた山へ戻っていく。そんな端山信仰が根付いていたいにしえの日本人にとって、山々を結んだ麓にあり、時折起こる安倍川の氾濫にも影響を受けない安全な丘は、祈りをささげるのに最適な場所であっただろう。時には命を守るとりでであったかもしれない。
 だから、そこにお社ができるのは自然なことなのだが、実は「静岡浅間神社」という名の単体の神社は存在しない。境内にあるのはこのあたりでもっとも古い起源をもつ神部(かんべ)神社、富士宮の浅間本宮から冨士新宮として祀(まつ)られた浅間(あさま)神社をはじめとする三つの本社と四つの境内社を合わせた7社、加えて、明治時代に合祀された33もの小さな神社。56の神々が境内におられる、と宇佐美さんは言う。
 「五穀豊穣や武運・開運、病気平癒、安産や商売繁盛など、駿河の国のあちこちに祀られていた神社を、ひとところに集めて総社としたのが、いわゆる『おせんげんさん』。いわば、ここは人々の祈りの集積地なんです」

人と神様との距離が近い場所。

 歴史には明るくないという人も、駿河の国と呼ばれていた時代から、ここがさまざまなドラマの舞台となったことは聞いたことがあるのではないだろうか。今川家のもと、駿府で幼少期を過ごした徳川家康はもとより、徳川家と攻防を繰り広げた武田家も、この地が戦場となり戦火が及ぶことを見越して神前に手を合わせた、という言い伝えがある。事実、幾度も焼失した社はそのたびに造営され、時代を超えて人々の崇敬を集めてきた。
 時代は流れ、風景が一変しても、私たちはお宮参りに、七五三にと、節目ごとに神社を訪れる。境内に入ると自然と背筋が伸びるし、拝殿を前に手を合わせる光景は、おそらくあまり変わっていない。
 おせんげんさんのお社の一つ、大歳御祖(おおとしみおや)神社から赤鳥居をくぐってまっすぐ延びる浅間通り商店街で、日本料理うおかねを営む髙木一浩さんにとって、おせんげんさんは「遊び場だった」という。
 「テレビゲームもなかった時代、鬼ごっこやかくれんぼをするのにかっこうの場所だったし、ボーイスカウトの活動の拠点でした。その中で神社のしきたりを教えてもらったりね。おでんを売っている茶屋があって、おじいさんたちが囲碁や将棋を打ってたりしているのも、いつもの光景でした」
 城下町より以前に門前町だったこの地に暮らす人々にとって、神様との距離はうんと近かったはず。今も「おついたち」の「安倍の市」には、幅広い世代の人々でにぎわう。英語のSocietyが「社で会う」と書いて社会、と訳されたのは、そこが人々のコミュニケーションの場と認められていたことに関わりがあるかもしれない。
 「江戸時代から続く酒屋などの商店もいくつか残っているけれど、本来、神社の周辺は、神職の人の住まいや武家屋敷があったエリアなので、いつ頃この門前で商いをすることを許されたのか、はっきりしていません。私で6代目ですが、2代目は確実にこの地に生まれたことが分かっています。代々、神社と関わって生きてきたからこそ、私たちも『おせんげんさん』と親しみを込めて呼ぶんです」(髙木さん)

これからの時代の、おせんげんさん。

 今、おせんげんさんでは20年の歳月をかけた「平成の大改修」が行われている。神部神社、浅間神社の楼門の、漆や彩色の塗り替えの真っ最中だが、漆塗りの建物がこの場所にあること自体が、そもそも想像を絶すると宇佐美さんは説明する。
 「全国で、漆塗りの国宝や文化財の建造物が多いのは、日光東照宮がある栃木県に次いで静岡県が2位。そのほとんどが静岡浅間神社と久能山東照宮です。漆塗りの建物が少ないのは、漆にとって直射日光は大敵だから。塗ったそばから劣化が始まる漆を、あえて日当たりのいい静岡の地でふんだんに使ったということが、このお社が徳川家にとって特別だったことを意味します」
 見事な彫刻や塗りを施すために、全国から腕利きの職人が集められたこと、一代では終わらない造営が二代、三代と受け継がれ、それが現在の静岡のものづくり産業のルーツとなったことは有名な話。宝物庫には各時代ごとの設計図なども数多く眠っているという。
 「次の世代に伝えていくために、アーカイブにも着手し始めました。工事はどんな規模だったのか、材木はどこから持ってきたのか、そういうことをひもといていきたい。おせんげんさんの歴史はそのまま駿府の歴史。府中の街が見えてくるはずです」
 時代に合わせて変わってきたことも。SNSの公式アカウントでは、社殿のあちこちにある魔除けの「猪目(いのめ)」をキュートなハートマークのように紹介したり、金具の彫刻を体験できるワークショップを開催したり、これまでとは違った情報発信も注目されている。
 「もともと神職は『言挙げせず』、神の言葉を伝える者がみだりに話せば人心を惑わすと敬遠されていたんです。でもこれからは、今まで知らなかった人にも神社に興味を持っていただきたいし、こういう素晴らしいお社が静岡にあることを誇りに思ってほしい。きっかけが猪目をかわいいと思う気持ちであってもいいですよね」

取材・撮影協力 / 静岡浅間神社 日本料理うおかね

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